空を見上げて 1

ほぼ崩落している西の塔の前で、フレイは一人悪戦苦闘していた。
ぽたりと汗が落ち、埃っぽい地面に染みを作る。

スコールを退け塔の機能を停止させたフレイだったが、塔前のシャッターにより行く手を阻まれていた。
本来マリン達との合流を妨害する目的であるこのシャッターは、研究施設の崩壊と共に機能を失う筈だったが、先程外側から激しい轟音と共に瓦礫が降り注ぎ、開放を妨げてしまっている。
フレイには知る由も無いが、暴走したリンが齎した破壊の影響は、ここまで広がっていたのだ。

フレイ  「…………くそっ。……マリン、皆……無事でいてくれよ……」

僅かに開いた隙間から覗き込んでみれば、反対側にはぎっしりと瓦礫が積もっている。
平常時であれば無理矢理突破する事もできたかもしれないが、満身創痍の今のフレイには無理がある。
半ば八つ当たりのようにシャッターに拳をぶつける。当然シャッターは開かず、返ってくるのは静寂だけ。
不安ばかりが募り、汗がまたひとつ頬から零れ落ちる。

しかし、無音は予想もしない声で破られた。
シャッターの向こう側から聞こえた、緊張感の薄い素っ気無い声に。

少女の声 「ごめん。そこに誰かいたら、下がっててくれる?」
フレイ  「!……なに、…ッ」

いつからそこにいたのか。シャッターの隙間を覗くより先に、強い力の前兆を感じた。
咄嗟の判断で、フレイは怪我が許す限り速く、シャッターの前から離脱する。

フレイ  「……っ……」

ほぼ同時に、シャッターを中央から瓦礫ごと左右に二分するように、緋色の閃光が奔った。
それが剣による斬撃であると判断する前に、障害物は紙切れのように引き裂かれ、爆ぜた。

リン   「…………」

フレイが、舞い散る土煙と礫から身を庇うため持ち上げていた左腕を下ろす。
明るくなりはじめた薄い白水色の空を背景に、目にも鮮やかな赤い姿が、はっきりと目に映った。
一瞬の混乱の後、すぐにフレイの金の瞳が見開かれる。

フレイ  「!!……リン、なのか!?無事だったんだな…っ!よかった……!」
リン   「…………? …………えっと…………」

当然のように自らの名を呼ぶフレイに、リンは首を傾げる。
その様子に気付いているのかいないのか、続く声を掛けようとしたフレイだったが、耳に響いてきた足音にその言葉は遮られた。

足を急がせてはいるが、万全でない為速度を出し切れていない、といった不規則なリズム。
やがて現れたその姿は、二つに結った金髪も解け、身体のあちこちに細かい傷を負い、辿り着いたリンの後ろで両膝に両手をつき荒い呼吸を整える。

ゆっくりと顔を上げ、ようやくフレイの姿がその琥珀の瞳に収められた。

マリン  「…………、…………」
フレイ  「――――……」

言葉は無い。もしマリンが声を失っていなかったとしても、その声を発する事は無かっただろう。
フレイの顔を見ている内に、その表情は徐々に泣きそうになり、一歩、一歩と、本当にゆっくりと歩を進める。

その姿をフレイもまた、まるで声を失ったように、息を止めて見つめていた。
マリンが歩み寄って来るのを見てようやく、ふらりと、吸い寄せられるように足が動く。

フレイ  「――――……マリン…、…………マリン……っ」

次第に、時間を取り戻したように、表情が安堵と切実、苦悩と喜びに歪み、その足が速まる。
焼かれた右足を引きずりながらも駆け寄り、動かない右腕の代わりに、左腕を強く伸ばす。

マリン  「…………っ、…………!」
フレイ  「マリンっ……ああ………、よかった、本当に……!」

もはや考える余裕などない。
マリンの身体はフレイの左腕に飛び込み、包み込むように抱き合った。

マリンはフレイの胸に頬を寄せて、フレイはマリンの髪に鼻先を寄せて。
ぐっと深呼吸してから、お互い顔を上げた。
そこでようやく、マリンの視界に焼き焦げたフレイの右腕が映り込む。
思わず触れようとした手を寸前で止め、代わりに悲しみと労り、微かに責める気持ちを混ぜたような、複雑な表情でフレイを見上げた。

フレイ  「お互い様だろ。……こんなに、怪我して」

半分は叱るように、もう半分は困るように、苦笑しながらマリンを見る。
細い肩を始め、マリンの身体にも細かい傷が残っていた。
指で撫でる代わりに視線で辿り、つらそうに眼を細める。

フレイ  「だけど……本当に、…本当に無事でよかった。心配した……見えないところに大きな怪我とか、してないか?大丈夫か…?」
マリン  「…………。…………」

フレイには知る由が無いが、声を失ったマリンに答える術は無い。
口を開く代わりにばつが悪そうにフレイの胸に顔を埋め、数秒の沈黙が訪れる。

その無言を破ったのは、やはり素っ気の無い声だった。

リン   「私は大丈夫です。こんな酷い怪我をして、早くちゃんとした所で治療して欲しいのに…… ……って、言ってるよ」

少し離れた場所から、マリンの代わりに口を開く。
声の方向に振り向いたフレイと目が合い、リンははっとした様子で口元を覆った。

リン   「…………ごめん。わたし、空気読めてなかったかな?」
フレイ  「あ、いや……」

再会の喜びに、リンの事は一瞬だが頭から消えていた。
その気恥ずかしさでフレイはリンに向けた視線を泳がせる。

だが、すぐに違和感を覚えた。
何故、それをわざわざリンが代弁するのか。
そもそも、何故マリンの考えがリンにわかるのか。

フレイ  「…………ちょっと待て、なんでリンが通訳するんだ?……マリン?なんかあったのか?」
マリン  「…………」
リン   「声が出なくなっちゃったみたい。さっきは普通に話せてたんだけど。……マリンの仲間だっていう貴方が何か知ってたら、って思って来たんだけど……」

その言葉に、フレイは驚きに見開いた眼で腕の中のマリンを見下ろす。
自分の怪我よりも遥かに痛ましそうに、その表情が歪んだ。

フレイ  「…っ、そんな、どうして……!戦闘で、喉や舌を傷つけたのか!?それとも何か、別の…っ。……くそ、俺は何も知らないんだリン、他の仲間なら何かわかるかもしれない、今すぐ……っ」

抱いたマリンの身体を抱え上げんばかりの勢いで、僅かに前傾姿勢になりながらリンに迫る。
明らかに冷静さを失っているフレイの鼻先に、す、と静かに人差し指が立てられた。

リン   「…………落ち着いて。 ね?」

凪いだ緋色の、揺らぎのない二つの瞳が、じっとフレイを見上げる。
不思議な程すんなりと、その言葉は動揺したフレイの心に響いた。

リン   「話してる途中に急に出なくなったから、物理的に傷つけたっていうのは無いと思う。他の人にも聞いてみなきゃいけないかもしれないけど…… まずは、冷静になって考えてみよう?」

フレイの乱れていた呼吸が落ち着き、何度か瞬く。
思わず必要以上に力の籠ってしまった腕を、急いで緩めて。

フレイ  「……あ、ああ。…そうだな…でも、俺には心当たりは何も……マリン、……マリンは何か心当たりはないか?」
マリン  「…………、…………………」

腕の中でじっとフレイを見上げていたマリンだったが、問われて真剣な表情になり改めて考え込む。
三人の間に暫く沈黙が流れた後、何かに思い当たったかのようにマリンの目が見開かれた。


『それじゃ、契約成立ねぇ。これをあなたにあげる、マリンさん。あなたがどうしても、何を引き換えにしても、立ち上がる力を……“二本の足”を求めるならば、それを使うといい』

『入院中、手持無沙汰でしょう?クリニックの本棚に色々あるから、暇つぶしにでもどうぞ。子供向けの本が多いけど、そこはご愛敬ね?』


マリン  「…………、…………。…………!」

声を失ったのが薬品の力の代償で、あの物語をなぞっているとしたら。
そして、なぞっているのが“薬の効果と代償だけでない”としたら。
愛を得られずに救われない結末を迎える悲劇を、捻じ曲げられるとしたら――――。

フレイ  「……?……マリン、何かわかったなら教えてくれ、頼むよ」

挙動不審なマリンの様子を訝しく思い、その瞳を覗き込むべく身を傾けるフレイ。

フレイ  「君の声が聞けないなんて、辛い。……せっかくお互い生きて戻れたんだ。またマリンの声で、名前を呼んでほしいんだよ。…な?」
マリン  「……………………」

徐々に赤みを増す表情で、マリンはフレイの顔を見上げる。
それでもなお伝えたくないのか伝えたくても術を知らないのか、何か行動を起こす事はない。

言えたとしても恥ずかしすぎる。王子の愛を得られなかったが為に悲劇で終わった、その物語は――――

リン   「人魚姫」
マリン  「~~~~っ!!」

依然無表情のままで、棒読み気味に呟くリンに、フレイが怪訝そうな眼を向ける。
それに反応するように、マリンの身がびくりと跳ねた。

フレイ  「人魚姫?………」
リン   「戦うために、リヒャルダって人から貰った薬が、読んだ本の話にそっくりなんだって。……わたしにはよくわからないけど。」
フレイ  「……あの人なら、可能性は十分あるな…」

言いながら首を傾げるリンの口ぶりは、まるで書いてある事や聞いた事をそのまま読み上げたかのようで、意味は理解できてないようだった。
しばらく考え込んだフレイは、マリンの様子を注意深く見ながらゆっくりと口を開く。

フレイ  「………俺が王子、っていうのは……調子に乗りすぎかもしれないが。……なぁ、マリン」
マリン  「……………」
フレイ  「……マリン。顔を、上げて」

ひとつ瞬いて呼吸をし、少し、顔をマリンに寄せる。
持ち上げられない右手を惜しく思いながら、低めた、優しい声で、囁くように。
それでも、瞳は逃がさぬようにマリンの眼を見つめて。
金の瞳とその言葉に動かされるように、マリンの顔が上向けられる。

マリン  「…………。………………………」
フレイ  「ん……いい子だ、」

見下ろしてくるフレイに言葉で応える事はできないが、代わりにその胸元にそっと、控えめにてのひらを添える。
とくん、とくんという胸の鼓動がそのまま伝わってしまいそうで、その気恥ずかしさに一層頬の朱を深めた。

ゆっくりと、フレイの顔が近付いてくる。
フレイは唇が触れる直前に、傍にいるリンをちらりと見て、何かを伝えるように口角を上げてみせる。
それから抱きしめたマリンの身体ごと少し身を捻って、キスする瞬間のその表情を隠してやって。

少しかさついた唇同士が、そうっと触れた。

マリン  「………………!」

瞼を閉じ、頭の中を真っ白にしながらも、控えめにフレイの腰に両手を添え、微かに身を捩らせる。

フレイ  「……ん、…」
マリン  「…………、…………っ、…………!」

触れてきたマリンの指先の感触に、フレイは湧き上がるような満足感を覚える。
ほんの少し口づけるだけのつもりだったのに、触れてしまうとあまりに離れがたい――――一瞬離しかけた唇を、一度目よりも強く押し当て、身じろぐ身体を抱え直しながら何度も唇を小さく食む。

離れかけた唇から、甘い吐息が漏れた。
眉尻を下げ、薄く開いた目を細めながら、それでも求めるように、唇のみでなく身体も擦り合わせるようにして、マリンはフレイに応える。

フレイ  「は……マリン、…っ……」

やわらかな胸を押し返す胸板から、マリンと同じくらい高い鼓動が響いている。
右手は持ち上がらなくとも、ぴったりと重なった身体なら、指を伸ばせば触れることができる。
なんとか動く右手の指先で、スカートの下の太股を掠めるように撫でながら、マリンの呼吸を呑み込む程に、繰り返し唇を合わせた。

フレイ  「マリン、……呼んでくれ、っ…はぁ……俺の名前……」
マリン  「…………っ、…………、……ぁ…………っ…………」

頬は一層赤みを増すばかりで、唇や指先はより強くフレイを求める。
離れそうになれば強く腰に手を回し、フレイの声が聞こえるたびに胸が高鳴る。

ようやくどちらからともなく離れた唇から、ほんの少し、小さな声が漏れて。
吐息混じりに、囁くようにその名を紡いだ。


マリン  「………………フレイ、……さん…………」


フレイ  「……っ!…マリンっ」

その声を聞くなり、堪え切れないように抱き締める力を強め、もう一度だけ唇を押しつけるフレイ。
唇を離して、いっそマリンが少し苦しいくらいに、抱きしめている金色の頭に頬を摺り寄せ、安堵の息を深く吐く。

フレイ  「マリン……良かった、……本当に良かった…。君を、全て、失わずに済んだ……帰ってきてくれて、ありがとう」
マリン  「ん、っ…………は、ぁ…………フレイ、さん……!」

されるがままに、フレイに体重を預け身を委ねるマリン。
ようやく取り戻した声も涙声になりながら、頬を摺り寄せ、噛み締めるように言葉を紡ぐ。

マリン  「私の方、こそ…………もう、言葉にできる感謝じゃ、足りなく、て……! 伝えたい事も、お礼を言いたい事も、謝らなくちゃいけない事も、数え切れない程あるのに……! 私、何て言ったら良いか……!」
フレイ  「いいんだ。…いいんだ、マリン、全部、全部、ゆっくりやろう。これで何もかもが解決したわけじゃないかもしれない、でも、少なくとも俺達には、また少しの時間が与えられたはずだ……だから、焦らなくていい。俺はこれからも君の傍にいるし、君も俺の傍にいてくれる、そうだろ?」
マリン  「……はい……はい……! ありがとうございます…… また、フレイさんと一緒にいられる…… 私は、それだけで十分です……!」

躊躇いながらも僅かに身を離し、今にも泣き出しそうなマリンを見下ろす。
フレイの瞳もまた、少し水分を帯びていた。
唇でマリンの前髪を除け、額にひとつキスを落としてから、再びマリンを胸元に収めて、それからリンに向き直る。

目を逸らすでもなく、じろじろと見るでもなく、彼女はただ黙ってそこにいた。
二人の行為の意味はよくわからなかったようである。

フレイ  「リン、君も……帰ってきてくれてありがとう。何があったのか俺はわからないけど、きっと、マリンを助けてくれたんだろう。ずっと、君が帰ってくるのを待ってた。…約束、お互い、守れたみたいだな」
リン   「……よくわからないけど、治って良かったね。」

少しだけ無表情の口元を緩めるリン。

リン   「でもごめんなさい、貴方の事、わたしは覚えてなくて。 貴方方の知ってるわたしの記憶、なくなっちゃったみたい。だからその、約束も…… ……ごめんね」
フレイ  「そうだったのか……、いや、それでも構わない。リン、君が覚えていなくても、俺たちは覚えてる。いくらでも話して聞かせるし、君の話も沢山聞かせてくれ。君がここにこうして立っているだけで、奇跡なんだ。……本当に、帰ってきてくれてありがとう……仲間たちも絶対に、君を喜んで迎えてくれるよ」

フレイは金色の瞳を見開くも、表情を曇らせることなく、やがて微笑んだ。
そして左手でとんとん、と軽くマリンの背を叩き、胸元にくっつく頬を上げさせる。

フレイ  「マリン、リンを連れて皆のところへ戻ろう。傷の手当ても、喜びの共有も、今の俺たちにすぐに必要だ……ああ、俺の手は埋まっちまったから、マリンがリンの手を」
マリン  「フレイさん…… ……はい、そうですね。行きましょう、リン」

フレイが、無事な左手をマリンの右手に絡め、ぎゅっと固く握る。
未だ目元が微かに赤らんでいたが、空いた左手で、マリンはリンの手をとった。
中心にマリン、その両側にフレイとリンが手を繋ぐ形で並ぶ。

フレイ  「へぇ、本当に双子姉妹みたいになったな……」
マリン  「ふふ…… 私とリンが、近くに寄ればお互いの考えている事をある程度感じ取れるみたいで、良かったです。 そのおかげで……」

そこまで言って、先程リンの前で自分達が何をしていたのか、思い出してしまう。
頬が朱に染まって、それを隠すように斜め下を向いた。

フレイ  「そのおかげで?……リン、なんだって?」
リン   「?? ……“フレイさんと「リンッ!!」

聞かれるままに、マリンの心中をそのまま言いかけたリンの言葉を、真っ赤な顔のマリンが遮った。

マリン  「いくら読めるからって、人の心の中をいたずらに教えるのは良くない事ですからね!」
リン   「??? ……わかった」

フレイ  「はははっ、……ああ、見てくれ二人とも!今日はすごく良い天気になるみたいだぞ」


明るい笑い声が、見上げた水色の空に響く。
昇ってきた陽光が、崩れた研究所の向こうから差し込み、三人を照らした。雲ひとつない清々しい天候設定の中、滞空するキャンプシップの姿が見える。
手を繋いだまま、ゆっくり、ゆっくりと、三人は仲間たちのもとを目指し、朝の空の下を歩いていった。漸く取り戻した、なんてことのない愛おしい時間を、存分に噛みしめながら。



  • 最終更新:2017-11-12 22:26:25

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