偽りの楽土を越えて 1

天秤がある。

両の皿にかけられているのは、それぞれ掛け替えのないものだ。

名前は何だっただろうか?
靄がかかったように思い出せないが、とても大切なものであることはわかる。



天秤が、音を立ててゆっくりと地に沈んで行く。

どちらかの皿をとれば、その皿に乗ったものは救うことができる。
しかしその瞬間、もう一つはその重みで沈み、失われるだろう。

だから、背を向けた。
そうすれば、それらが失われる瞬間は目にしなくて済むから。



でも、目を背けた先にも、天秤はあって。
やはりそれは、ゆっくりと地に沈んで行く。

目を背けても、背けても、何処にでも天秤はある。


それに気が付いた時は、もう遅くて。
既に沈みつつあるそれに、必死で手を伸ばして、




「――――――――っ!!」

気付くと、手を伸ばした先は真っ白な天井だった。
下に目を向ければ、同じように白いベッド。


リヒャルダのラボ、クリニックで眠っていたのだと数秒経ち理解してから、マリンは手を下ろす。
今はストレートに下ろした金髪は乱れ、指で頬に触れれば涙の跡がある。

全身が汗で濡れていて、その不快感にふぅ、と息を吐いた。
しかしそこで、此処が自分の部屋ではない事を再度思い出すと、上半身を起こしぽつりと呟く。

「……フレイ…… さん……?」

今すぐ顔を見たい、しかし今の顔は見られたくない、そんな複雑な思いで。


返ってくる声はなかった。
静けさに包まれたクリニックを見回してみると、ベッド横に小さなメモ書きを見つける。

薬と食材の調達に出掛けてくる、という用件と、留守番させてしまってすまない、という謝罪が簡潔に、しかし丁寧に残されていた。
その横には、緊急時の連絡用であろう端末と、水の入ったボトルが添えられている。
リヒャルダも出掛けているのだろう、ラボ内に人の気配は感じられなかった。

ボトルの水を一口飲んで、立ち上がったマリンは最低限身だしなみを正すと、そのままラボを後にする。
現在の状態で無闇に出歩くことが危険なのは理解している。それでも、今はこの場に留まっていられなかった。





時間は正午前。
人も疎らな居住区を、何処へ行く当てもなく歩く。

数日前剣を合わせたスコールの言葉と、少し前までガーゼを貼られていたフレイの顔が、何度も頭の中で巡っていた。


相手の目的は、未だ紅玉に眠ったままのリンを犠牲にして、自分を救う事だと言う。
それはマリン本人として、許せることではない。
死にたくはないし死ぬつもりも無いが、自分を救ってくれた恩人を二度も自らのための犠牲にするなど、それ以上に認められるわけがない。

しかし。

それは、自らのエゴなのではないだろうか?
相手の意向に従わず抗うということは、ついこの間のように戦闘は避けられないだろうし、リンを取り戻すために敵本拠地を探し当てれば全面対決になるだろう。
フレイも、ルリも、ロミオも、シャムシールも。チームメイトも、他の仲間も、少なくともギリギリまでは、恐らくマリンの意思を尊重してくれるはずだ。
この先目覚めるかもわからないリンのために、仲間の身を危険に晒すのが、果たして正しいのだろうか?

もし降伏して従えば、を考えてしまう。
マリンを救うという相手の目的を考えれば、それ以上誰かが傷つくことはなくなるだろう。
当然、リンを除いて。

「…………」

答えが出なかった。
どちらを選んでも、どう立ち回ったとしても。

誰かを犠牲にしてしまう。 傷つけてしまう。


もし、自分が犠牲になることでリンを救えて、誰も傷つかずに終わるなら、どんなに楽だろう、とふと思う。
それは最も身勝手で自己中心的な結末だと知りつつも、拭い去れない。


答えの出ない問いを自らに繰り返す中、いつの間にか人の気配が消えていた。
家どころか建造物も見当たらない、緑に覆われた丘の上。
ただ当ても無く歩いている内に、随分と遠くまで来ていたようだ。

戻らなければいけない、帰ってきたフレイに心配をかける前に。
………しかし、帰るべき場所は何処だっただろうか?


何かがおかしい。


いつの間にか、辺りは先ほどまでの丘の上ではなく、上下左右、何処を見渡しても揺らめく青い炎に覆われていた。
炎の中に閉じ込められているのに、苦しさも熱さも無い。所か、揺り籠に揺られているように心地良い。
一面の青の世界において、しかしその異常な状況を、マリンが異常と思うことは無かった。
まどろみの中で夢を見ているような感覚だ。


『何も見なくても、良いのよ』


青の世界の中で、声だけが聞こえる。
懐かしくて、優しい声。 声の主の名前を、自分は知っている。
なのに、上から黒く塗り潰されたように思い出すことができない。

『あなたが目を閉じれば、全てが終わっている。苦しい思いをしなくても、大丈夫』

それはきっと、真実だ。
昔から、その声の通りにしていれば、全て上手くいった。
今回もそうだろう、と思える力が、その声にはある。
聞いているだけで、包まれているだけで、心からの安堵を得ることができる。

でも、その前に自分には、為さなければならないことが――――

『大丈夫。目を閉じて。そうすれば、誰も傷つかない』


「…………」

ああ、そうだ。 自分がいくら足掻いた所で、大切な人達が傷ついていくだけなんだ。
この声の主に任せれば、きっと誰もが笑って、幸せな結末を迎えられる。
為すべきだったことも、救いたかった人も、全て忘れよう。

まどろみから深い眠りに落ちていくように、光の無い琥珀の瞳をゆっくりと閉じて―――



"―――――――………。"



瞬間、その閉じた瞼を微かに震わせるように。
遠雷のような、遥か遠い、何かの音の余波のような揺らぎがマリンに触れる。

余りにも微かなその揺れは、音とも判断できないが、深海に沈むような眠りを妨げるには足りた。

「…………?」

薄く瞼を開き、顎を上げる。
このまま眠ってしまうのが、最も楽な道であることは分かりきっている。
それでも、耳を澄まさなければならない気がして、閉ざしかけた五感を呼び起こす。


耳を聳て、10秒か1分か、それとも一時間か―― 感覚はわからない。
幻聴だったのかと思う程に、静寂は続いた。
しかし、瞼が閉じられようとする度に、わん、と響くような鳴動が蒼の揺り籠を撫でる。
静寂に割入り、マリンに伝わる確かな"音"がある。

"―――――……ン…。"

眠りを妨げられているような不確かな鳴動に、しかし不快感を感じることはなかった。
方向の感覚も曖昧な中、ただ前に向かって、ゆっくりと腕を上げ、手を伸ばす。

炎により編まれた深海の中、マリンが揺蕩う波の狭間に、あたたかな色の夕陽が差し込んでくるように感じた。
伸ばした手の指先に、陽光が触れる。
光も影もない水底で、確かなあたたかさを感じる。

触れたい。掴みたい、と確かに思った。
楽土と呼べる揺り籠の中で、異質なその光を、手繰るように指を引く。

"――――――……リン……!"

その指先が引き寄せたように、"音"は"声"になる。マリンの意志に呼応するように、強さを増していく。
あかい輪郭をたしかに感じる。深海の中で、夕陽のような煌きが、マリンの瞳に光を差し入れる。


"―――――――………マリン……マリン!……マリンッ!"

「…………、…………!」

そうだ、これは――――。
あたたかな夕陽の色。名を呼ぶ、低い響き。

何故、忘れていたのかわからない。
今すぐ、あの場所へ戻りたい。戻って、忘れていたことを謝りたい。
だから、精一杯に手を伸ばして。

夢中で、その名を叫ぶ。


「……フレイさん……」
「……フレイさん、フレイさん……っ!!」


ぴし、と高い音が聞こえた。 青い炎の壁に亀裂が走っている。
それは徐々に全体に広がっていき、ついにぱりん、というガラスのような脆い音を立てて。

全てが弾けた。
蒼の世界が、崩壊する。


  • 最終更新:2017-03-29 23:47:37

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