あの日の出来事

赤黒い爪が肉を裂き、同色の鮮血を撒き散らした。ごぼごぼと泡のようにこみ上げる死。
堪らずに吐き出した赤が、腕の中の赤ん坊を濡らした。

そこはアークスシップ市街地に設けられた病院の、一角の部屋である。
清潔な白と香りで整えられた部屋であったが、今は何処其処にヒトの死骸が転がって、臓物と鉄臭さに汚れていた。
生き残っているのはたった一人――――否、たった二人の、親子である。
無邪気に眠る娘を、自身の体で守るように抱きしめた、今日初めて母になったばかりのヒューマンの女性。
迫り来る灰色の世界の中で、煌々と輝く赤い髪。
失われゆく血に青ざめてはいるが、その顔立ちはくっきりと整って美しい。
振り向きざまにぎんと相手を睨み据えた双眸は、深い深い緑色であった。
サンゴ・フェガロペトラ。
それが彼女の名前であった。

破壊するもの。人類の敵。
悪名高くその場に君臨するのは、「ダーカー」と呼ばれるモノである。
こうしてアークスを襲ってくるが、何故襲うのかはわからない。そんな得体の知れない「敵」だ。
メディカルセンターでナースとして働くサンゴにも、染み込むほどに教えられる。
だからこそ、背中に受けた裂傷がぐずぐずと命を蝕んでいくことに、納得してしまった。
こいつらは「敵」なのだ。
どんな理由があってかは知らないが、確実に、人類を殺すそのためにやってきた闇の使者。
彼女は、これからダーカーに殺されるのだ。

「……くれてやるよ……!」

獰猛に凄絶に彼女は笑った。
ただその挑発的な笑顔の中に、ひと握りの後悔を秘めて、サンゴは言葉を絞り出す。

「この命、なら、……くれてやるッ……」

その代わり。
ふと視線を落とし、娘を見下ろして、きつく抱いた。

あんただけは、死なせない。

夫のレオナルドも、もう帰ってこない。
いくらアークスの一員とはいえ、武器も持たず囲まれては逃れる術もない。
救援が来れば。
否、もう少し――――早く救援が来ていれば、あるいは。

それももう夢物語だと、霞む視界で微笑んだ。

もっと、愛してあげたかった。
もっと抱きしめてあげたかった。
乳をくれて、たくさん頬にキスをして。
這って歩くのを見守って、その声を一番に聞き届けて。
何が好きで、何が嫌いか分かってあげて。
友達は何人できたか、毎日楽しいか、他愛のない話をして。
どんな人を愛して、どんな人に愛されて、いつかその身を純白のヴェールに包むのを眺めて涙して。

そんな風に、愛してあげたかった。

ひとつ雫がこぼれたと同時に、凶刃が振り降ろされる。
それがサンゴの身体を引き裂く頃、視界の端におそらくアークスの救援だろう人物が駆け寄ってくるのが見えた。

ああ、この子は、助かる。

長い長い息を吐くと同時に、世界に闇が降りた。
全てが遮断される前に、せめて。
せめてその名を呼ばせてくれと、魂を燃やして喉を震わせた。

「……ルリ……」

赤子を抱き上げた誰かが、息を呑んだことだけが分かった。

  • 最終更新:2014-06-09 18:00:27

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